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靄(もや)けぶる早朝、朝日に照らされた湿原が黄金色に輝く。木道を進むハイカーが錦秋を楽しんでいた。
福島、群馬、栃木、新潟の4県にまたがる、高層湿原の尾瀬ケ原や尾瀬沼からなる尾瀬国立公園。周囲の山々と厳しい寒さ、豊富な水源が独特の景観をつくり、高山植物の宝庫でもある。
今や誰もが知る尾瀬を世に広め、開発から守った一人の植物学者がいる。今年没後50年を迎えた武田久吉(ひさよし)博士(1883~1972年)。
英国の外交官アーネスト・サトウの次男として東京に誕生。幼少時から植物と登山に興味を抱き、英国で植物学を修めた後、京都帝大や北海道帝大で講師を務めた。
初めて尾瀬を訪れたのは明治38年、22歳の時。「風光の類(たぐい)まれなることに驚倒」「未(いま)だかつて他で見ない風景地」。あふれる感動を紀行文に記し、尾瀬の名を世間に広めた。
尾瀬は水が豊かなため、明治末期から昭和初期にかけて水力発電の開発計画が何度も持ち上がった。反対する地元に協力を求められた博士は学術調査を行い、新聞や雑誌へ寄稿し土地の希少性を繰り返し訴え、ダムの建設を食い止めた。自動車道の敷設が検討されると異議を唱えた。
研究者の立場から尾瀬を守り抜いた博士はいつしか「尾瀬の父」と呼ばれ、尾瀬は日本の自然保護運動発祥の地になった。
初代から3代目の管理人が博士と保護活動に尽力した山小屋「長蔵小屋」の平野紀子さん(81)は博士の晩年を知る。「厳しいことをはっきり物申す辛辣(しんらつ)な面もあったが、根は心優しい英国紳士」と振り返る。定点調査に来たとき、自分のつえの先で落ちているごみを拾い集める姿が目に焼き付いているという。
博士が世を去り半世紀。開発を免れた尾瀬には総延長約65キロの木道が設置され、コロナ禍前には年間約25万人が訪れた。
利用者増に伴うトイレやごみ処理など問題は尽きないが「先生は尾瀬を愛する人が増えること自体は喜んでいるはず」と平野さん。
尾瀬を愛する人たちが、守り続ける人にもなってくれれば-。尾瀬の父もそう願っているに違いない。
筆者:鴨川一也(産経新聞写真報道局)
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