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ハノイのHa Dong市に完成した2件目のイオンモール。規模は日本と変わらない広大な1階催し会場から、音楽に合わせて元気な子供達の騒ぎ声が聞こえる。ペットボトルに色を塗ったりくっつけたり、好きな形にして楽しんでいるが、1つだけ決められたルールがある。
ペットボトル本体からフタとラベルを剥がして使うこと
小さい子供達に「分別」というものを、理屈では無く肌で感じてもらうイベントをやっている。仕掛けているのは、今回ご紹介する「JUNK&Co Vietnam JSC」中村貴敏社長だ。日本で40年以上リサイクル業を営んできた父親のノウハウをそのまま引き継ぎ、ベトナムハノイに日系100%の会社を設立した。
日本でやってきたリサイクルとは「Materialリサイクル」。つまり、紙に限らず鉄、アルミ、プラスチックなど、資源になるゴミは何でも回収し再利用に回す。昔よく街中を「古新聞、古雑誌、ボロ切れなどございましたら」とスピーカーを鳴らしながらトラックで巡回していたが、あれを更に手を広げてやっている業態だ。この「再資源化事業」をベトナムで一から立ち上げようとしている。
「やめておいたほうがいい。ピストル向けられるよ」
「資源のリサイクル」と聞こえは良いが、平たく言えば廃品(ゴミ)をお金に換えるビジネス。参入してくるベトナム企業は、まさに生き馬の目を抜く、油断もスキもない業者達だ。応援どころか反対の声の方が圧倒的に多かった。
そんな環境に身を置き、日本での経験を糧に、単身で乗り込んできた中村さんが、イオンモールでベトナムの子供達に「分別の大切さ」を教えるイベントに汗を流しているのである。
「リサイクル忍者と読んでください」
着ぐるみのチャックを外しながら額の汗を拭い、照れくさそうに満面笑みで返してくれるが、目は笑っていない。日本での経験の上に立ち、ベトナムでシェアを伸ばすための「揺るぎない一手」を中村貴敏社長は繰り出しているのだ。
イベント会場の片隅にパイプ椅子を並べて聞くことができた、「リサイクルの鬼『中村貴敏』の挑戦」をご紹介致します。
なぜベトナムのハノイに狙いを定めたのか
中村さんがベトナムハノイで古紙卸売・輸入・回収事業などを手掛ける「JUNK & CO, Vietnam. JSC 」を設立したのは、2020年8月。当然「日系100%」、業態を考えると「ベトナム人名義」を入れたほうが何かと融通は効かせやすいはずだ。しかしあくまでも「日系100%」にこだわる。その理由は単純明快で、
「いつでもやりたいこと、またやらなければならないことに直面した時に機敏に動けるため」
思いたったら直ぐに軌道修正する事で、幾多の苦難を日本で乗り切ってきた。
「特に今はペーパーレスの時代。新聞や雑誌の回収は激減しましたが、同時に脱プラスチックが進んでいます。レジ袋は紙に変わり、ストローも紙に。一番はネット通販でお届け時の梱包材全て紙かダンボールです。プラスチックなど影も形もありません。今は空前のネットショッピング時代で、ダンボールに梱包されたデリバリー品が日々届きます。ベトナムも例外ではありません。意外と、紙はしぶといですよ」
紙を取り巻く環境変化に翻弄されながらも、敏感に対応してきた日本での経験が、今の中村さんの思考の根拠になっている。スピードが命なのだ。
その中村さんを作り上げた、日本での歩みに少し触れたい。
学生時代は柔道一筋。満身創痍になりながらも大学卒業まで「特待生扱い」で学費は小額負担のみ、親孝行を貫いた。3人兄弟の末っ子故に、好きなように進路を決めさせてもらえた中村さんが、大学卒業時の進路を「柔道の指導者」と打ち明けた時、「儲からん仕事はやめておけ」と父親に初めて反対される。そして父親の意見に従い、東証1部上場企業「日本紙パルプ商事株式会社」に入社。卸商でいうと紙の販売量No1だった優良企業である。先代から紙の回収リサイクル業を長年やっていたことを考えると、業界人になる為のレールを敷かれていたのかと、今から振り返るとそう気付く。
そこで紙・パルプの業界知識を身につけた後、父親が切り盛りする廃品回収業「信和商事株式会社(京都府)」に入社する。その時は上の2人の兄も、既に仕事に就いて父親を支えていた。
リーマンショックで紙のスクラップ価格が急落し、同業他社の廃業が相次ぐ中、父親を頭に息子3人が踏ん張り、なんとか難局を乗り切る。そして気が付けば関西圏の資源回収量の10%以上を信和商事グループだけで担うまでになる。京都本社を中心に、大阪、三重、滋賀に資源リサイクル工場を16拠点増設し、破竹の勢いで業務拡大を続けた。地域のリサイクル市場を制するためには、その取扱量を増やし、スケールメリットを利かせることは至上命題なのだ。
その後父親を急病で亡くし精神的支柱を失うが、残された中村さん達が結束し、取扱品目も先代より守り続けてきた古紙だけではなく、鉄、アルミ、プラスチックといった「Materialリサイクル」にその業務範囲を広げ、同時に販路も拡大させる。そして工場の設備投資にかかった数十億円の借金を全て返済し、京都府から「無借金の優良法人」として表彰されるまでになる。
「腰が抜けるほどの京都の大企業と一緒に、信和商事グループの名前を見つけた時の喜びは今も忘れられません」
現在も、父親が残してくれた16拠点の工場はフル稼働中である。
これを踏まえて中村さんは言う。「日本国内の資源リサイクル事業は成熟しています。しかし世界に目を向けると私達が積み重ねてきたリサイクル業のノウハウを必要とする国はゴマンとあります」
「なぜベトナムに」の問いに、いくつかの資料を見せてくれた。ベトナムは日本から大量の「古紙」を輸入している。その理由は、日本の古紙はリサイクルされた紙がメインなので、加工時に溶かしやすい性質があるからだ。アメリカの古紙はリサイクル率が日本と比べるとまだ低く、バージンパルプから作られた古紙なので繊維が太く溶けにくい。おまけに日本の古紙は、分別が徹底されているので紙の保存状態も良い。リサイクル大国日本の古紙は、零細製紙業者の粗悪な設備でも扱えるために人気が高いのだ。
また中村さんがベトナムを知るきっかけになったのは、古紙の海外輸出先にベトナムが浮上してきたことにも関係する。
日本は古紙のリサイクル率が高く、製紙会社へ販売しても余ってしまう。その余剰分の古紙を中国へ輸出し収益に繋げていた。日本より高値で余剰古紙を購入してくれる中国に、販路を広げる努力をせずに輸出を集中させる同業他社もあった。しかし、その中国が一斉に古紙の輸入を止める。自国回収に力を入れるためだ。中国輸出に依存していた会社は多く店じまいを余儀なくされたが、輸出先を早くから分散していた中村さん達は、タイ、台湾、インドネシア、マレーシア、そしてベトナムに古紙販売先を切り替え、急場を切り抜ける。
この時、中村さんは初めてベトナムという国に着目するようになる。
「古紙の自国回収率は31%と東南アジアでも最低数値です。それだけに『伸ばし代』があり、僕たちのノウハウが最大限活かせると確信していました」
またもう一つ、中村さんがベトナムの、特に首都ハノイを強く意識する事情がある。それは、中村さんが大量に集める古紙を原材料として利用する製紙会社が、なんとハノイ近郊に大集積しているというのだ。
「Bac Ninh(バクニン)省です。日本で言う静岡県富士市のような、まさに製紙業のクラフトVillageですね」
私達がオフィスを構えるハノイ市内から車で1時間足らずの近郊に位置し、日系企業の工場も多く集積している。2030年までに中央直轄市を目指すベトナム第8位の経済規模を誇る大都市がBac Ninh省だ。そこに、小さな家族経営の製紙工場群が大規模に軒を連ねて広がっているというのである。
「ベトナム全土の製紙量の内20%はBac Ninhの中小工場で作られているのです。このBac Ninhの製紙工場が近いことが何より大切です。私達の販売先でもありますから。そして首都ハノイでの情報収集は貴重です。人口が多いことも魅力的ですね」
リサイクル回収のノウハウは十分蓄積できている。リサイクル回収後の販売先も確保できそうだ。しかし一番の問題はリサイクル回収量を如何に増やすか、そして質の高い回収をする為に如何に分別を浸透させるか。ここに勝敗の分かれ目がある。
今まではゴミとして廃棄していたダンボールやペットボトルを分別さえできれば、中村さんのような回収業者に買い取ってもらえるのだ。つまりゴミを出す業態は、分別さえできれば収入を産み出すことができる。
その分別の意識が、未だ低いのがベトナム。昔の日本と同じである。どうやって分別を組織的に敢行するのか、そのノウハウを知る中村さんにとって、やる前から十分な手応えを感じ取れる。
「ベトナムで勝負をかける」、決めた後は早かった。家族、そして会社上司である兄弟を説得し、単身でベトナムへ渡る。
後編では、ベトナム市場をどう切り開くのか、そのこだわりの内容と、今後の戦略について取り上げたいと思う。
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