聴覚障害者から見たパリ・パラリンピック
日本のメダルラッシュで沸いたパリ・パラリンピックについて、日本代表選手団を栄養面でサポートしている味の素株式会社の一員で、聴覚障害者である尾城淳一さん(47)に振り返ってもらった。
SPONSOREDー パリ2024パラリンピック競技大会の日本代表選手団を栄養面で支えるため、選手村近くでだし湯を提供するプロジェクトに参加した尾城淳一さん(47)は、生まれつき耳が聞こえない。初のパラリンピックで尾城さんは多種多様な発見があったことを示し、「30年後、さらなる受容性がある社会になってほしい」と想いを馳せた。
選手村の導線全てについていたサポート
選手村の食堂で見て感じたことを教えてください。
目が見えない人、腕がない人など物理的にハンディをもつ選手には必ず同伴者がついて配膳から食事、後片付け、部屋に戻るまでの導線全てにサポートがついていました。食堂も広く、一つ一つの動作に困らない空間が確保されていました。ビュッフェの配膳カウンターは低めに設計されており、車イスのアスリートが選ぶのに困らない目線で料理を見せていました。
聴覚障害者の五輪はデフリンピックになるため、聴覚障害の選手はいらっしゃらないということになりますか。
各国代表選手に尋ねたところ、英国に隻腕で聴覚障害の選手がいると教えてもらいましたが出会えず残念でした。
ブラインドサッカーの観客サポート
ブラインドサッカー(正式・ブラインドフットボール)を楽しみにされていらっしゃいました。いかがでしたか。
自分の聴覚障害とは違う想像できない世界です、全盲なのにあれだけダイナミックに動き回れるのは本当にすごい。ボールを持っている選手に向かっていくときには声をかけてからボールを奪いにいく、配慮があるスポーツでした。
視覚障害の観客はどう観戦するか気になっていました。すると、障害を持つ観客には黄色のビブスが配布され、機材(ボード)が貸し出されていました。ハーフタイム中に観客の母娘に聞いてみました。目が不自由な娘さんは、ボードでボールの動きを自動で再現し、触覚を使って試合内容を追いかけて楽しんでいました。視覚障害者が視覚障害者のスポーツを楽しめる画期的なツールに感動しました。
尾城さんはこれまでオリパラ観戦はどうされていましたか。
テレビ観戦では必ず字幕をつけ、結果がでたらウエブやSNSを見ていました。1988年のソウル五輪のときは、音声による解説がなく翌日の新聞記事を読んでいました。今は字幕、SNSでリアルタイムに情報を得ることができ、画期的だと思います。
日本勢初の金メダルの鈴木孝幸選手
運動機能障害クラスの水泳・平泳ぎで優勝し、日本勢初の金メダリストとなった鈴木孝幸選手は、味の素とパートナー契約を結んでいます。鈴木選手とは話されましたか。
200m自由形で銅メダルをとられた時は観客席におり、周囲のフランス人とハイタッチして、一体感を味わえました。国際大会で日本人選手がメダルを獲得する瞬間に立ち会え、日本人としての高揚感だけではなく、実際に見ることから得た感動は素晴らしい瞬間でした。
ほっと一息つける場所として選手村近郊に設けた「Café du dashi」でだし湯を提供されていたんですね。
異国で重圧にさらされているパラアスリートを、日本のうま味の力でサポートすることは喜びでした。鈴木選手はメダル獲得翌日に来られました。お祝いの言葉をかけたところ、手話で「ありがとう」と返してくださいました。
聴覚障害者と交流
パリには18世紀初めにド・レペ神父が世界で初めて設立した聾学校、国立パリ聾学校(1750年設立、1791年国立化)がある。尾城さんはパラ開催中、この学校を訪問した。聴覚障害者の五輪「デフリンピック」が初めて行われたのも1924年のパリだった。来年の2025年には、東京でデフリンピックが開催される。
パリ聾学校で感じたことを教えてください。
学校の外壁に第1回デフリンピックの写真が掲示され、貴重な写真をじっくり見てきました。放課後、学校の外で手話で談笑していた高校生グループに話しかけました。彼らによると、学校には7~21歳まで250人程度おり、寮生活をしながら学んでいるそうです。
学生さんはパラリンピックについてはどう感じていましたか?
開催中のパラリンピックの関心はあまりなかったのですが、来年東京で開催されるデフリンピックの期待は大きく、私が東京から来たことを告げると、目を輝かせて日本に行きたいと言っていました。日本のマンガや食べ物について逆質問され、日本への関心の高さがうれしかったです。
来年は東京でデフリンピック開催
日本ではまだ、聴覚障害者の五輪がデフリンピックであることや、デフリンピックが来年、東京開催であることなどあまり知られていないと思います。パリではどうでしたか。
街で、警察官に話しかけたところ、彼らに「パラリンピックを見にきたのか?」「聞こえない人はデフリンピックだろう」と突っ込まれ、日本とは違う認識の高さに驚きました。デフリンピック(1924年)はパラリンピック(1960年)よりも歴史が古く、最初の大会がパリで開催されておりメディアにもとりあげられ、パリ市民に知られていたのかもしれません。
30年後の世界
今大会に参加して得たものをどう活かしていこうと思われますか。
パラリンピアンが会場で躍動している様子、選手村の多様性を見て、30年後は今より受容性のある社会になり、パラリンピックとデフリンピックも統合されていればいいなと感じました。そして、世界を変えていくために自分ができることは何なのかと想いを馳せています。
振り返ると、生活面で不便な思いをしたこともたくさんありました。でも、自分の障害はコンプレックスではなく個性だと思っています。その個性を死ぬまで大事にしたいと思っています。
この記事は、Japan 2 Earth のロゴパートナーである味の素株式会社の協力により掲載されています。
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(Read the article in English)
記者: 杉浦美香